アフリカとの出会い48

 
 叔父の来日に思う   

  アフリカンコネクション 竹田悦子
 日本にいると、アフリカだけではなく、世界中の出来事が遠くの違う時代に起こっているような感じを受けることがある。幸せなことに私の今は、昨日も今日も、おそらく明日も間違いなく「生活出来る」ことが当たり前で、戦争も民族闘争も、暴力的な政変も無い日常だ。

 電気も水道もガスも毎日きちんと供給されている。明日の食べるものがないと訪ねてくる友人もいないし、失業中なのに酒場でビールをたらふく浴びて夜中にドアを叩く友人もいない。それほど生活に困る人が今の私の周りにはいない。今の自分はなんとも幸せで恵まれた生活をしている。そんな今の生活が当たり前ではなかったケニアに暮らしていた8年前の生活を思い出す出来事が最近あった。

 ケニアの叔父が仕事で来日したのだ。叔父は、私が御世話になった孤児院の院長先生で、60歳を目の前にしての2回目の来日だ。日本の支援者達との会合の合間をぬって2日間だけ我が家にやって来た。叔父はケニアで小学校の校長先生もし、たくさんいる子供達の多くを大学まで進学させ、教育には熱心に投資してきた。院長を務める孤児院の子供達の進学にも積極的に支援していた。

 ケニアの小学校教育は無料となったが、高校卒業後、ケニア全国統一進学試験にパスして大学に進学できるのは半分くらいだ。運よく進学できたとしても、学費が続かず卒業するのも大変なことだ。そして大学を卒業してもその後の就職となるとまた厳しい道が待っている。同一民族の縁故採用もあるし、勉強の成績以外の要素も大きく関わってくる。大学を卒業することが一生の安泰を保証しないと分かっていながらも、ケニアの多くの親達の希望は、子供になるべく教育を、いい教育を受けさせるのに熱心だ。

 叔父の子供も、大学や専門学校へとそれぞれに進学し、卒業した。私がケニアにいた頃、小学生や高校生くらいだった子供達は、私よりみんな年下ではあるが、それぞれ大学を卒業し、就職し、結婚し、子供をもうけ、家族を作っている。子供の数も皆私より多い。

 叔父が沢山の苦労をして子供に「教育」を受けさせるには訳がある。叔父は言う。「教育」は単に仕事に就く為の職業的技術や専門知識の習得だけではない。教育は、「心」と「頭」を育てる。教育を受けた人間は、たとえ思い通りに行かないことがあろうとも、生活が苦しいからといって短絡的に盗みをするとか、現実から逃げてしまおうとか、簡単に人生を諦めようとは思わないのではないのか。苦しい時も自分や社会について冷静に「考える」姿勢を知らず知らずに身につけることができる。

 叔父は、いつも希望を忘れない人だ。たとえ、スタートラインで躓いても最後まで諦めない。逆転ホームランを最後の最後まで諦めず信じられる人だ。ケニアのような社会は、確率的に言えば自分が望んだようになる社会ではない。不慮の事故など思いがけないことに遭遇することも多い。日本の社会にいるように自分の努力でどうにかなることでもない。たとえ進学できて勉強を続けられても、たとえ学校の成績が良かったとしても、何かが約束される事ではないのだ。そんな社会で、自暴自棄にならないで、最後まで諦めないで、自分を信じる。

 私がいない間の8年間のケニアの様子を叔父から聞く。大統領選挙後の暴動のこと、別の叔父が行方不明になったこと、友人が射殺された事、書ききれないほどの沢山の出来事や事件があった。「生きてあること」がすでに大変な幸運に巡りあわせているという事実を私は忘れかけていた。叔父と話していると、ケニアでの生活がいろいろ思い出され、あの時私はケニアの人と共に同じ時を生きていたことを改めて思った。

 久しぶりに義母に電話をした。私のために、小学校で習ったきりの英語の本を出してきて、勉強し直してくれた義母だ。片言だった英語も今はもう無理なく話せるようになっている。

 私「叔父さんが来て、ケニアが懐かしくなりました」

 義母「ははは。だってケニアにはあなたの家があるじゃないの!」

 アフリカから遠い日本。でも母はこんなにも近い存在だ。電話のあと、少しほっとした。
 


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